2017年 04月 20日
SAKURA
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私が自分の写真に対してしていることは次の通り。常にカメラを持ち歩く。とにかくよく歩く。目に飛び込んできたものだけにレンズを向ける。瞬撮してすぐ去る(たまに少しの時間滞在)。コントラスト高めの設定でマイナス1〜2段でものすごく堅い光の中撮る。RAWデータで撮り、SPP(シグマの現像ソフト)で暗部を落とし、自分のイメージに近づける。時としてトリミングはする。以上。

私はフォトショップを使うことができない。正確にいうとプリントはするけれども、画像処理ができない。できないし、したいと思ったこともほどんどない。あとからそこにないものを加えることも、そこにあったものを消すこともしたことは一度たりともない。

本当に困れば、必要だと感じればきっと何らかの方法で学ぼうとするのだろうと思う。それとこれは私の思い込みかもしれないけれど知識を得たら、同じ量失うものもある。そう思っている。入ってきた量と同じだけ別の形で出て行くのは世の中のことすべてがそうだと私は思っているから。

そして写真を撮る上で一番大切なことは自分が「発見する」ということだ。自分の心が動いていなければ、見る人には絶対に届かない。だから私は何かモノをまたは人をセットアップするようなことはしない。モップも自分で立てかけたりしない。私の写真のすべては偶然の産物といってもいい。探したりしない。でも調子が悪いと探してしまう自分もいる。リラックスしているときは、向こうからやってくる。綺麗な四角い枠をもって風景が切り取られ浮かび上がってくる。だから私はそれとスッと切り取ればいい。

でも見る人はそうは思わないのだなということを改めて知らされた。かつてキヤノンサロンでも、普通にただシャッターを切って、こうなるわけがないと言われた。なにかしている、なにをしているか知りたい。そう迫られたけれど、本当になにもしていないし、私にもわからない。ただ私は写真を撮るときに、ハイライトの部分だけが実にくっきりと浮かび上がって見えていることは確かで、それが私にシャッターを切らせている。それは私が日頃サングラスをして写真を撮っていることと関係あるかもしれませんねとそのときは答えた。写真は考えて撮るもの、テクニックを使って撮るものと信じてやまない人はたくさんいるようで、そういう方々とはたぶん同じスポーツでも違う種目をしている感覚に近い。

今でもいただくメールに本当に驚く。あとから影を入れているとか、過剰な画像処理をしているとか。そう言われてると怒りを越してとても悲しい気持ちになる。私は作意的にも作為的にも写真を撮ったことはない。デジタルで写真を始めた私だけれど、写真の撮り方はいたってアナログだ。デジタルだから何度もシャッターを切ればいいとも思わないし、後からなんとかすればいいとも思わない。いい写真は一発でいい。抑えもいらない。

そしてなぜ光と影にこれほど執着するのかもわからないし、日常の中で写真を撮ることにこだわり続けているのかもわからない。ただ思うことは、誰がみても美しく、すでに出来上がっているものに私は興味がないということだ。興味がないというのは語弊があるかもしれない。美しいものは素直に美しいと思う。けれどそれが私がシャッターを切る原動力にはならない。もっと誰もが見ていて、使い古されたような、何の変哲もない風景の中に私はいつも魅かれるものがある。自分だけが見つけた光景を誰かと共有したい。だから誰に求められなくても、一円にもならなくても、排他的な写真だといわれても、私は写真を撮り続けたいのだろうなと思う。

私は写真を撮り続けたいから生きてきた。私の写真はきっと世の中に存在している、光も当たることのない見向きもされないようなものへ対して、私はちゃんとあなたを見ているというメッセージでもあるのだと思う。誰かと共有したいというより、そのそこにある風景たちが存在していることをそしてそれが美しいことを世の中に知らしめたい。そういう気持ちのほうが強いのかもしれない。そして同時にその風景に自己を投影しているのだとも思う。

ということで、今は不調ですが、きっと撮り続けます。

by sudi.s | 2017-04-20 19:06 | SIGMA DP3M


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