2017年 06月 16日
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誤解を恐れず言うならば、写真をやめてしまいたいと思う。今までも何度も何度も思ってきたことで、特にここ数年はずっとやめたい自分とやめたくない自分の狭間を行ったり来たりしてきた。

写真を続けることは今の私には苦しい。そういう気持ちを認めたくなかったし、写真を撮ること自体は今でも好きなので、自分を奮い立たせて続けてきた気がする。けれど、一点の曇りもなく心から写真を続けたいと、撮りたいと思えない気持ちのまま続けることはとても苦しい。

写真を撮ることは単純に楽しいとか嬉しいとかではなかった。心の底から自分が生きていると感じさせてくれる行為だった。だから生きていることが辛すぎてそれを放棄しようとしたときも、そんな自分を引き止めたのは写真だった。どんなときも一時も離れることなくずっと私のそばにいてくれた。そういう存在である。タイトル通り、私にとっての光であり希望だった。

夫に写真は私の全てではなく一部なんだと言われたときも、それはとても正しい意見だと思いつつ、でもそうじゃないとも思った。知人たちに写真か夫か選ぶことではないと言われたときも、それは私のような生き方ではないから言えるのだと思った。写真があって、夫がいて、生活のための仕事があって、家事をして、走って、時々友達と会って。それが理想的な在り方だと思う。たぶん。でも私にはバランスをうまく取ることができない。何かを得ると何かを失い、また何かを失うと何かを得る。いつも偏っている。

キュレーターやギャラリーには見向きもされない写真でも、私には本当に多くの多くのファンの人がいてくれた。写真が撮れようが撮れまいが静かに黙って見守ってくれて、厳しい中にも優しさがある意見をたくさんたくさんもらってきた。結婚したときは多くの祝福メッセージをもらい、過分なほどに愛されたSudiだと思う。実際の私とはまるで違う人みたいにずっと思っていたけれど、写真をやっていることが辛くなった今、Sudiはリアルな自分だと感じる。私なんだと、不思議とそう感じる。

カメラを持たずに過ごす毎日は少し物足りなく、時々猛烈に悲しくなる。でも写真を撮る意味がわからない。この耐え難く非生産的行為を盲目的に続けられるほど私には才能はなかったとも思う。写真を始めた頃に多くの人にいわれた「Sudiさんはすごくなるよ」は何の意味もなさず、そもそもすごくなるってなんだろうとも思う。すごくなることも思わないし、そうなることもたぶん望んではいない。

昔みたいに無心で撮りたい。でもどうやっていたのか、もう忘れてしまった。

by sudi.s | 2017-06-16 00:23 | SIGMA DP3M


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