2016年 11月 28日
Photograph
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何がいいのか私にはわからなかった。彼の作品ってこんなだっけと思って眺めた。見るというよりは眺めたという表現のほうが正しい。私の感覚がそれほどまでにズレているのか、体調不良だからなのか、とにかく何も感じなかった。賑わう会場の中で私は完全に不感症になった気分だった。自分の記憶と全然違う作品だった。

最近いいなあと感じる写真に出会っていない。今年みた写真で一番心に響いたのは、メキシコの写真家マヌエル・アルバレス・ブラボ の写真展で、今名古屋市美術館でやっているはずだ。恥ずかしながら私は彼の名前も何も知らず、そして当然写真展をやっているとも知らなかった。世田谷にある公園をぶらぶらと散歩していた。そして偶然彼の写真展に入った。本当に偶然に。猛暑の中、避暑がてら期待なく入った。そして素直に感動した。ああ写真っていいものだなと思った。希望を与えてくれた。そんな気がした。私もまだ撮り続けてもいいんだと言われているようなそんな写真展だった。彼が有名とか無名とか、プロだとかアマチュアだとか関係なく、惹きつけるものがあった。全てとは言わないけれど、とても見る価値のある作品たちだった。理屈を超えて惹きつけられてしまう作品が好きだ。なぜかはわからないけど、その前から動けなくなってしまうような離れがたくさせる磁力をもった一枚があれば、その写真展は私にとって見る価値があったといえる。

写真を始めたころ、写真をたくさん見て勉強するべきだというアドバイスをよくもらった。そして私は結局そのいいつけを守ることなく、ここまできてしまった。それを恥ずべきこととも思うし、でも同時にそれは私にとって建て前であって本音ではないかもしれないとも思う。写真を見て本当に写真を学べるなどと私は思ったことがないから。立派な写真家の先生がいうならともかく、私のような人がいっても説得力はないし、たぶん間違っているのだろう。けれどどれだけ写真を見るかということより、普段の生活の中でどのように物を見つめ、感じているのか。どれだけのものに自分は引っかかっているのかということが大切に思う。何も感じ考えていなければ、すべては素通りしていくだろう。写真を見るということ自体しかり。

写真を撮るということは、他人から習えない。教えてもらうことはできない。という意見はこれからも変わらないと思う。写真を撮る行為は自己コントロールできない否が応でも自分の中から溢れてくる「何か」によってでしか行えない。それがいつでも溢れでてくるわけでもない。堰き止められたようになるときもある。それでもいつ沸き起こるかわからないそれを待つしかない。とても苦しいことで耐え難い。本当に苦しい。でも永遠にそうであるわけではないと信じるしかない。その繰り返しなのだろうと思う。だから私はこの12年間ほとんどどんなときもカメラを持っている。持ち歩かなかったときは数えるほどしかない。その数えるほどしかなかったときですら、カメラの不在を絶えず感じ、自分自身がそこにない感じで落ち着かなかった。シャッターチャンスはいつあるかわからない。スランプの人がいたら言いたいことはただひとつ。撮れなくてもカメラは常に持っていたほうがいい。それで365日一度もシャッターを切れなかったとしても、カメラを持っていなかった自分とは絶対に違うはずだから・・・・と私は信じている。

by sudi.s | 2016-11-28 18:58 | SIGMA DP3M


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