2016年 09月 26日
夫について
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7月のアルル行きは前から決めていた。だから帰国を待って8月に入籍した。区役所へ行き、薄茶色の枠がついた紙を渡す。係りの人は何も言わず、無言で事務的に処理した。証明書をもらうわけでもなく、あっけなかった。これが結婚なんだと思った。

簡単に結婚してしまった。出会って1年で結婚すると思っていなかった。お互い結婚願望もなく40すぎまで自由に生きてきたから、その価値観が180度変わったことに驚き、戸惑い、しかし素直に受け入れた。周りにはとても祝福されたし、お互いの両親も心から喜んでくれた。だからこれはきっと間違っていないのだろうなとぼんやり思った。なんでもそうだけれど、やろうとしても障害が多すぎるものは、どこかが間違っていると私は思っている。間違っているというか、そっち方向じゃありませんよと言われている感じ。

夫の琴線に私の写真は響かない。ということが随分と気に入らなくて、よく喧嘩をした。「惹かれています」とストレートにと言われた時も私の写真に興味がない人には私は興味がないと言い放った。我ながらひどいと思うけれど、本心だったから。私の写真がわからない、感じないという人とは感性が合わないと思いますと。それでも夫はくじけずに私に対して積極的だった。けれど、私の写真がよくわからないという点は貫き通した。わからないものはわからないんだ、ごめんなさいとよく言っていた。その正直さが一層私を悲しませた。けれどだんだんと夫に認めさせること、誰かに認めてもらうことというのが、本当に重要なことなのか、そんな小さなところで自分は写真をやっているのかという疑問が湧いた。それから自然と気にならなくなった。あらゆる評価という評価が本当はそれほど重要ではないことなのだと気づかせてくれたのは皮肉にも夫である。私が必死で追い求めていたものが、実はそれほど重要ではないということに。

夫といる空間の心地よさというものを私は言葉で説明できない。家族からも得ることができなかった安心感のようなもの。だからこれが恋だということに気づくには時間がかかった。私の知っている恋はもっと情熱的で激しくて不安で傷つくものだったから。それとは全然違った。一緒にいる時間は静かで穏やかで懐かしい。なぜ結婚したのかよく訊かれるけれど、結婚しないほうが不自然だったから、そう答えるしかない。彼といることはとても自然なことで、写真を撮ることが私の日常であるように彼もすでに私の日常になっていたからだと思う。

写真しかない人生だと思っていた。写真がなければ死んでしまうとも。それ以外のことを選ぶ人生も私にはないと思ってきた。そのことで結婚前に悩んだ。どちらか選ばなければならないような気がしたから。そういうものじゃないと人はいう。でも私はいつもひとつだけを選んでひとつだけのことして生きてきた。そういう狭い生き方をしてきたのだから、どちらも大事というのがよくわからなかったのだと思う。今は写真も夫も私の人生の一部だと感じる。けれどどちらが大事かと聞かれれば私は迷わず夫だと答える。でもそれは写真が大事ではなくなったことではない。形がまたは居場所が変化しているということに過ぎない。夫がいればそれですべてオッケーとは思わない。やはり一部でしかない。私は自分の人生を自分の足で立って生きていきたい。死ぬときに、私は写真を撮ることが心底好きだったと思って死んでいきたい。そのときそばに夫がいてほしい。それが私の幸せです。

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東京の友人だけで手作りの小さなパーティをしました。とても幸せでした。 photo by ギナギナ


by sudi.s | 2016-09-26 12:23 | SIGMA DP3M


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