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2009年 11月 07日
秋晴れの空の下、日比谷まで。まだまだと思っていた友人のコンサートに心躍る。ピアノの鍵盤がよく見える最前列で登場を待つ。本来ピアノを聴くにはステージ上手、つまりピアノの蓋側で聴くほうが音の響きがいいときくが、音のことがわからない私は視覚的に楽しみたいので鍵盤前。 連弾曲から始まったプログラムはオールショパン。演奏はショパンの生い立ちや作品の背景などの解説を挟みながら進んだ。演奏を聴くときはその音を純粋に楽しみたいのだから、余計な情報はいらないと思っていた私だけれど、作品の背景を聞くのは興味深かったし、この曲をどんな想いで書いたのだろうかとか、彼女たちがどうそれを解釈し表現するのだろうかとか色々考えながら聴くことができて面白かった。 小さいホールからはみ出さんばかりの大迫力の演奏で、私は高揚し涙が出た。彼女の音色はせつなく、優しく、でも凛々しく、勇ましい。力強いけれど、力で弾いているようなパワーピアノとは違う、そんな印象だった。彼女と知り合いでなくても、彼女の音を好きになっただろう。ずっと聴いていたい心地良さがあった。終わって顔をみたら思わずハグした。それが私の感動の表し方だった。 隣に小さな女の子がちょこんと座っていて、ピアノを習っている子なのだと思われた。アンケートにはみ出しそうなくらい大きな文字で「とてもがんばっていたとおもいます」と一生懸命書いていたのが印象的だった。 ![]() # by sudi.s | 2009-11-07 23:27
2009年 11月 06日
悲しいとき辛いときにこそ、そのエネルギーを写真にぶつけるべきだという人たちがいるけれど、いささか短絡的な考え方だという気がする。 もちろん負のエネルギーの一種は創作へのトリガーとなりうるし、実際心が満たされると創作できないというアーティストもいる。けれど、本当に負のエネルギーをぶつけただけのものが人の心を打つのかは疑問だなと最近思う。 どのような経験であっても、その経験を通して得た感覚感情は時間をかけて自分の中で消化吸収され、熟され、糧となる。表現者ならば、そこで初めてそれをアウトプットできる。それは一朝一夕にはいかず、かなりの時間が必要なことだと思う。またそれは計算してできることでもないだろう。 私が尊敬するある人は、余計なことは何ひとつ聞かず言わず「写真家なら写真で落とし前つけなさい。そうしなければただの人ですよ」とだけ言った。とてもその人らしいやり方で、私は励まされた。 ![]() # by sudi.s | 2009-11-06 21:44
2009年 10月 26日
銀座という街にはなかなか慣れることができない。高校の時上京して大学を卒業するまで銀座にはほとんど行ったことがなかった。なんとなく学生の分際で行く街じゃないと思い込んでいた。カジュアルなスニーカーを履いていく街でもないとも。ま、実際そんなことないんですけど。東京でそんなことを考える街は私には銀座くらい。そして和光や三越のある辺りはあまり好きじゃなくて落ち着かない。できれば一丁目とか逆に七丁目とか端っこにいたい。 歩行者天国のこの日も一丁目でこれを撮って、すぐに地下鉄に乗ってしまった。 ![]() # by sudi.s | 2009-10-26 11:09
2009年 10月 09日
2009年 10月 07日
雨の中、久しぶりに映画を見てきた。今更ながら「ココ・シャネル」。文化村は火曜日がサービスデー!!インターネットでレビューを読む限り、評価がかなり低かったので逆に興味が沸いたこの映画、個人的には好きです。もっと描いてほしい部分もあったけれど、彼女の人となりがよくわかったので、総合的に良かった。 私自身ブランドに全く興味がない上、シャネラーと呼ばれる人達が著しく下品にみえることが多く(失敬!シャネルのせいではない)特に興味がなかったのだけど、TVの番宣にまんまとひっかかり彼女に関する本を読んで結果的に映画まで見てしまった。 映画には描かれていないのだけど、彼女は多くのアーティスト(ピカソやストラヴィンスキー)などのパトロンだったのですね。彼女は大きな成功をおさめたけれど、お金に執着することなく才能のある人間へ、広い意味では世の中へ還元していた。芸術の分野に幅広く貢献した人だったとは知らなかった。「お金は人生に装飾的楽しみを与えるが、人生そのものではない」という言葉がとても印象的。 さらに驚くのは、彼女を取り巻く人間模様。誰かが去ると必ず誰かが彼女の前に現れるというみえない磁力がある人。もっとも彼女の才能がそうさせているのだろうけれど。彼女を見ていると、全ての別れはすでに用意された次のステージのために思えて仕方ない。別れは過去から見ると「終わり」なんだけど、未来から見るとすでに「始まり」ということ。人生を点で見ないで、長い線で見れば、幸とか不幸とか決められないはずだし、すべては繋がっているんだなと思った。 美とは引き算。彼女のその哲学にもまた共感します。さて、寝ます。 ![]() # by sudi.s | 2009-10-07 00:32
2009年 09月 25日
ホロヴィッツばかり聴いていたら、ピアノ好きだと思われたのだけど、そういうことではなく、ホロヴィッツが好きなだけである。きっと彼がヴァイオリニストなら彼のヴァイオリンの音色に惹かれただろう。 写真に関しても、私は写真を見ることが好きなわけではなくて、ケルテスが好きであり、トミオセイケが好きなだけである。共にとても衝撃を受けた二人だけれど、前者は鋭い刃で切り裂かれるような衝撃で、後者は静かな波のような衝撃だった。そして自分の撮るものに良くも悪くも影響を受けすぎるくらい受けたと思うは後者だと思う。 ご本人にもお伝えしたけれど、私はセイケ氏の作品の「空気」にとても惹かれる。目には見えないものだけれど。でもその目にみえないものというのがとても大事な気がする。音楽もCDは音の情報量が多く音の質がいいと言うが、データでは表すことのできない聴こえていない音?みたいなものがあるらしい。それはCDではそぎ落とされてしまう。これって写真のフィルムvsデジタルの話に似ているのかも。 「デジタルに魂は映るか否か」についてセイケ氏と銀座のカフェで話をしたことを思い出した。結論はagree to disagree。私が納得できるには、まだ時間がかかりそう。 その清家冨夫氏の個展「Eighteen month」は個性的なオーナーでおなじみブリッツギャラリーさんで公開中です。 ![]() # by sudi.s | 2009-09-25 00:18
2009年 08月 18日
チェロの音は人間の声に近いらしいけれど、私はピアノの音を雨のようだと感じる。それも夜に降る小雨。特に高音の連続した音(音楽用語で何というのかわかりませんが)は、水面に広がる水紋のよう。聴いた曲がショパンだったせいもあるのかもしれないけれど。 私は音楽のことも音色のことも全くわからないので、「泣いているみたい」とか「森の中にいるみたい」とかあとは視覚的なイメージが湧いて、そうやって音楽を楽しんだりする。 ピアノが気になって、図書館であらゆるピアニストのCDを借りて聴いたところ、私の心の琴線に触れたのはホロヴィッツという今は亡き名ピアニストだった。最初下手くそに聴こえて(無知の怖いもの知らずな発言です)、でも聴くほどに味わいのあるピアノだなーと私には感じられ、虜になった。You tubeで見ることのできる独特の弾き方にも魅了された。と、ピアニストの知人に伝えると、「渋いっすね」と言われた。 彼は10年という長い間ピアノから離れていた期間があり、その間復帰を促す人達も多かったらしいけれど、夫人だけは「アーティストは弾きたいと思わなければいけない。弾かなければならないと感じなくてはいけない。人が何をいっても無駄です。だから私は何も言わない」といって何も言わなかったというエピソードがある。私はそれを読んでとても感動した。本当に弾きたくなるまで弾かなかった彼にも、それを見守り続けた夫人にも。 願わくば、ライブで演奏を聴き見たかったと思うピアニストです。 ![]() # by sudi.s | 2009-08-18 00:00
2009年 08月 01日
拍手喝采って、なんだかスコールみたいだ。 音楽家でも踊り手でも役者でも、舞台にあがる人間は、あの歓声を聴くために表現しているといっても過言ではないだろう。歓声とは一種の麻薬のようなものだと私は思う。 私はカーテンコールが好きである。もちろん素晴らしいステージのものに限るのは言うまでもない。あの空間に身を置くと、表現者はステージの向こう側の人間だけじゃないという気がする。劇場にいる人間すべてが舞台をつくるのだと改めて思う。表現とは自分のためであっていいのだし、観客のためのものではないと私は思うけれど、ああいう形で共感しあえるというのはやっぱり素晴らしい。それがライブの凄さというか強さというか。こういうときに、紙の上の表現である写真ってなんだか弱い、と思ったりする。わかりやすさの違いかもしれないけれど。 最近すごく好きになったピアニストがいて、けれど彼はもうこの世には存在していていない。仕方なくCDを聴くしかないのだけど、やっぱりライブで聴きたかった見たかったと思う。また大好きだったバレエダンサーも引退したり、亡くなってしまった。もう彼らの超人的なパフォーマンスを見ることはどんなことをしても不可能なのだと思うと、残念である。そういった意味では、写真家や画家は亡くなっても作品は残る。半永久的に生き続ける。それというのはもしかしてすごいことかもしれない。本当に。同じ時代に生きていない人間とも共感ができるのだから。 ・・・などということを、素晴らしいパフォーマンスを聴いたあとに考えながら帰路についたのでした。いいものを見たり聴いたりすると幸せな気持ちとか切なさとかに似た感情がウワーッと湧いてきて胸がいっぱいになります。 ![]() # by sudi.s | 2009-08-01 22:12
2009年 07月 15日
![]() 2泊3日で帰省した。短いけれど、私にはベストな期間だと思う。あまり長居はしたくない。色々な意味で。 実家に帰って、まず気づいたのは照明が替わったことだった。間接照明であることには変わりはなかったけれど、全体に茶色いというか、もっと落ち着いたトーンの家だったのに。照明が変わるだけで、こうも印象が変わるのかと思うと不思議。 子供のころから、父の小さな書斎が好きだった。人が一人入ったらもう誰も入れないほど狭いスペースで、そこにロウソクのような間接照明がひとつだけあるという読書するには最悪であろうその書斎。父のいない昼間にそこへいくことが、少し怖いような楽しいようなそんな感覚だった。でもその照明すら新しいものに替えられていて興ざめだった。 父はどちらかと言えば暗い人で、私の中では、薄暗い部屋の中で、難しい顔をして考え事をしている姿が一番父らしい。もっとも母はそれをひどく嫌っていたけれど。陰鬱だわとか、こっちまで暗くなるわだとか言って。確かに彼の纏っていた重々しい空気は家中を包んでしまいそうな勢いだった。その父もすっかり年老いた。図体は大きいので、貫禄はあるけれど、なんというか小さくなったという印象を受けた。あれだけあった威厳というより、威圧感といったほうが正しい強烈な存在感はもうない。あれほど恐れていた彼の威圧感がなくなると、それはそれで寂しさに似た不思議な感覚を覚えた。 愛犬ムクもすっかり年老いていて、それもそのはず14歳になったとのこと。耳も遠くなったらしい。私が帰っても今までのようなリアクションはなく、ボーッとしていた。まさか私が誰だかわからないのでは?と思うと、ちょっとショック。それでもマルチーズにしては長生きらしい。食べているものも悪いし、ストレスだって多いはずなのに、不思議。 昨年の秋に帰省しているから、それほど時間が経っているとは思えないのに、何故だろう、とても急激に時が進んでしまった気がした。 ![]() # by sudi.s | 2009-07-15 23:07
2009年 07月 06日
2009年 06月 24日
なんか久々の更新って緊張するぅーと思ったけど、そうでもないか。 雨の日に家に帰って傘を畳んだ瞬間、久々に衝動的にシャッターを切ってみた。百合みたいだとか思って。百合とかチューリップとかって、いつも小さいオジサンになって中に入ってみたいなーと思う。そういう場合はマクロで疑似体験すればいいんだけど。そういう意味では、カメラって便利。 先日、音楽家と「表現とは何ぞや」を話す機会あって、結局結論らしい結論はでなかったのだけど、感性交流会のようなその時間が楽しかった。彼らは作曲家が創りだしたものを解釈しそれを楽器を通して表現する(再現芸術というのですね)わけで、それは自己表現といえるのかという話にもなった。それってアートとは無から創るものを指すのかという議論に似ていて(そういう意味では写真も違う)答えがあるようなないような難しいテーマだと思う。でも結局は音楽家も写真家も道具を通して、自分を表現しているはず。自身が道具である歌い手やダンサーのようなストレートでプリミティブな方法とは違うけれど。 でも自分は果たして何かを表現しているのだろうか?と考えるとよくわからない。仮に私に表現したいことがあるとしても、言葉にしたら「ああっ」とか「うーっ」とかそんな音にしかならない。そういう言葉にならないものを作品に投影しているのでしょうね。そしてそれを見た人がこれがこの人の自己表現なのねっと思うだけというか。本人が自己表現だとか意識してすることでもないような。それに生きている以上、万人が絶対何かしらを表現しているわけだし。それを意識しているかしていないかの違いや、表現欲の強さの違いでしかない気もする。 ちなみに私の好きな茂木さんの著書によると、創造しているときの脳内メカニズムと、(記憶を)思い出すときのメカニズムって同じ動きなんだそうです。なんかすごいかも、それ。だから原体験とか自分の創るものに影響するのかなーなんて思った次第です。やっぱり茂木さんの話は魅力的。 さて、寝ます。 ![]() # by sudi.s | 2009-06-24 00:20
2009年 05月 12日
ずっと春とか桜とか好きじゃなかったのだけど、最近は好き。年を取ったのかも。などと思っていたら、いつの間にか毎日夏日。 久しぶりに体調不良が続いた。これほど持病が悪化したのは6年ぶりくらいで、正直ヤバイなと思っていた。今は回復に向かっているのだけど。お陰で写真を撮る気にもならず、、、というのはもっともらしい言い訳で、実際は写真を撮らないから体調不良になのかもしれない。卵が先か鶏が先なのか。 シャッターは時々切るけれど、写真を撮ってはいない。それは同じ行為かもしれないけど、なんというか私には全く別の、比べようもないほど別の行為なのです。体調不良を言い訳にするのは簡単で、それで自分を納得させることも実に容易ではあるのだけれど(実際とっても疲れやすいし)、本来写真を撮る行為は体調不良なんて飛び越えてしまう次元にあるもの。少なくても私には。熱があろうが、お腹が痛かろうが、撮りたい気持ちに勝るものはなかった。ということは、体調の問題ではなく、情熱の温度の問題なんだろう。きっと。 チェコのある写真家は片腕を失っても素晴らしい写真を撮り続けた。私にはカメラを構える腕があり、被写体を捉える眼がある。そして被写体に近づくための足もある。それでも私は写真を撮らない。撮れない。なんて勿体ない話だろう。 あるミュージシャンが死んだ。特別ファンではなかったけれど、とても魅力的な人だったのだなあと改めて思う。死んだらもう歌えない。伝えたいことがもう伝えられない。でも早すぎる死だと誰もが言うけれど(私も当たり前のようにそう思ったけれど)、早いとか遅いとかいうのってなんだろう。どこに基準があるのかよくわからないなあとも思う。何年生きたかというより、どう生きたか。まあこれもありきたりな言葉ですね。 雨が降りそう。雨が降る前の湿気を含んだ重い空気は好きじゃないけど、雨の匂いと音は好き。それに夜の雨は格別に贅沢。 ![]() # by sudi.s | 2009-05-12 21:34
2009年 04月 10日
季節は春だというのに(夏っぽいですけれど)、季節に取り残された私はなんとなく物思いに耽る毎日です。 人生には拘りが必要だと思って生きてきたのだけど、最近それがよくわからなくなりました。もっとも私が拘泥していることなど、たいしたことではないのだけれど。後から考えたらなんで拘っていたんだろーと思うことも多いし。これがなければ、こうでなければという思い込みに縛られていただけかもとか。 物事への拘りがあるというはきっと大切なことなのだと思います。けれどそれに囚われてしまうと、人生の流れのようなものが滞るような気がするのです。私の恋人は驚くほど人生のほとんどのことに拘りのない人ですが、彼を見ているとそれはこの人の強さだといつも感じるのです。人生を生き抜く上で。だから少し羨ましいと思っています。 最近、自分の中に変化がありました。他人からしたらどうってことないことだと思いますが、私自身はこの喪失感に似た感情をどう受け止めていいのかよくわかりません。正直、すこし戸惑っています。その失ってしまったものに、もう二度と出逢えないような気もするし、またひょっこり私の前に現れるような気もしています。この世の終わりみたいにジタバタしてみたり、でもどこか醒めてその状況を静観していたり。よくわかりません。ただ去り行くものに「またねー」と元気に手を振る勇気と潔さがあればいいのにと思っています。 ![]() # by sudi.s | 2009-04-10 23:50
2009年 03月 09日
東海道線に乗って川崎まで。なぜか東海道線に乗ると、ちょっと小旅行気分。 目的はアジェの写真展。川崎市市民ミュージアムがアジェの作品を収蔵していたとは初耳で、今回そのうち50点が展示されているのだけれど、それが無料で見れるとあって交通費をかけても行く価値ありと思っていってみた。 すごい人ごみだ!と思ったら、その流れは途中で展覧会とは逆方向へ流れていき、展覧会には2、3人しかいなかった。休日だというのに。おかげで静かにゆっくり鑑賞できて満足。 アジェを知ったのは2年前。コアなsudiファンF氏から「美の巨人たち」(だったと思う)を録画したDVDを送っていただいた。私はこういう性格だけれども、誰かが薦めてくれたものは意外と素直に見る。特にメールなどでダレソレの展覧会に行ってみてはどうですか?とご提案いただいたものは素直に行っているのです。ブログに何にも書いてないときは、ピンと来なかっただけのことで、割と行く。 アジェは30歳を過ぎてから写真を始めたということに大変親近感を覚える。彼の熱烈なファンではないけれど、彼の作品は素直に好きだなと思う。同じ静かさでも静寂というより冷静。彼と被写体の距離感が好きなのかもしれない。客観的というか。日本人でも誰もいない都会を切り取る人は多いけど、そういうのとちょっと違う空気感と距離感。 展示は今週中までなので、見たい方はお早めに。それにしてもお隣のショッピングモール?にはすごい人の波が飲み込まれていって、エコだの不景気だのとは縁遠い光景だった。物欲って魔物のようだ。お金がないというのもあるけれど、なんというかそこまでしてどうしても欲しいものって今の私にはない。カメラすら欲しくならないのもオカシイですが(恥)。私が欲しいものは、ズバ抜けた才能の類いなので、さすがに何でもあるショッピングモールでもそれは手に入りません。 ![]() # by sudi.s | 2009-03-09 16:55
2009年 02月 26日
子供の寝顔というのは、どこまでも無防備で、それだけで私は満ち足りた気持ちになる。 音楽と写真の世界で活躍されているその人は、ご自分の本業を「父親」だと言っていた。穏やかな口調だったけれど、守るべきものがあるという、強さとか潔さとかそういったものを含んでいた。 子供を産んで、もしくは育てて、人は一人前になると言う人は多い(もっとも一人前って何さ?と思うけど)。又、親の気持ちが初めて解るとも。そうなのかもしれないし、そうではないかもしれない。子供を育てるということは、自分が子供に育てられるということだと思う。苦労も学びもきっと多いだろう。でも親にならない人は、そこで学べない分、きっと他のことで人生を学ぶだけのことだと私は思っている。 子供を産んだら、写真が変わりますよーとよく言われる。そういうことを言うのは決まって男性だけれど。余計なお世話だと思うと同時に、写真が人生をも写すなら、それは当然のことで、なんら特別なことではないと思う。子供を産まずとも、常に環境は変化し、自分自身も変化している。そしてそれと同時に表現しているものも変化していくはずだ。 私は自分が母親になる想像はつかないし、きっとなることはないだろう。子供がいたら、私は写真が必要ではなくなるかもしれない。成長記録として「写真を撮る」という行為はしない気がするし、自己表現する欲求はなくなる気がするから。なんとなく。依存体質だから、子育てが人生の全てになり、子供をスポイルするだろう。そして子供に「母さん、ウザい」と疎まれ、ああ私の人生って何なのかしら?と思うタイプ。以上、自己分析(笑)。 だから私は写真を撮っているのが一番いいんだと思う。そして隣を見たら恋人がいる。そんな感じ。本当に大切なものはひとつかふたつでいい。 ・・・・というようなことを昨日布団の中で考えていたら、眠れなくなったので、今夜はしっかり寝ます。おやすみ。 ![]() # by sudi.s | 2009-02-26 23:31
2009年 02月 20日
私の尊敬する写真家たちが同時に個展を、それも東京で開催しているというのは、とてもレアなことだと思う。PGIにて清家冨夫「NUDE」、ZEITにてマイケル・ケンナ「Mont St Michel」。 清家氏の作品を見るたび思うことがある。彼は写真家ではなく、画家なのではないかと。この表現は語弊があるのかもしれないけれど、いつも写真展を見ている気がしない。絵画をそれも繊細なタッチの鉛筆画でも見ているような気分になる。そして感動は強い衝動としてではなく、静かにじわじわとゆっくりと暖かいものが湧いてきて、それに包まれる、そんな感じ。 ケンナ氏の作品展は写美に続いて2度目。清家氏の作品が鉛筆画なら、彼のそれは水墨画という印象。初めてみたとき、こんな写真があるのかとも思ったし、またそれが日本を写したものだということがとてもショックだった。こんな風に自分の国を外国の人に撮られてしまったのか、というような悔しさも含めて。今回の舞台はフランスだけれど、彼が撮るものは国境を感じさせない。どこで何を撮っても、それは彼の世界。だから風景を切り取っていても、私の知っている風景写真家たちのそれとは一線を画する。 恥ずかしながら、私はモノクロプリントに精通していないので、彼らのプリントの質の高さといったものが残念ながらわかりません。しかし彼らがプリントのマスターの中のマスターであることは間違いないので、そういった意味でも勉強になる作品展と言えると思います(わかっていない私言っても説得力ないんですけど)。ちなみにこれを読んでも、一体どんな作品たちなのかは全くわからないと思うので(すいませんね)、是非ご自分でご覧になって、感じてください。 ZEITの帰りに、銀座にて。歩きながらの携帯操作は危険です(笑)。 ![]() # by sudi.s | 2009-02-20 00:13
2009年 02月 07日
お久しぶりです。年が明けてひと月も経ってしまいました。実験に失敗した博士のようなパーマもバッサリ切って気分一新です。 タレントブログ炎上で書類送検というニュースですが、個人的にはとても興味深かったです。自分のことを思い出しました。今となっては懐かしい話ですが、当時はとても辛かったです。中傷する人、私を庇う人の応酬でコメント欄が100件以上になってしまったりしていて、私は蚊帳の外でした。中傷のメールも頂きました。それらを有名税だと笑う人は多かったけど、それは自分はそうならない安全な場所にいるから言えるんだと思います。自分の発表したいものを発表しているだけで、なぜ作品の批判から個人中傷へ発展しなくてはならないのかなと悲しかったです。そういう彼らを哀れむには私はかなりの時間を要しましたしね。個展にお見えになった方に「よくあれを乗り越えましたね」と言われたことがあるのですが、私は別に乗り越えたわけではないのです。乗り越えるという言葉はもっと意味のある試練に使う言葉だと思っています。それにしてもああいった行為をする人がリアルな社会の中では普通に生活し、会社に勤め、家庭を持っていたりするんだろうなと想像すると一種の気持ち悪さを覚えます。 話は変わって、先日久しぶりにとてもフォトジェニックな場所を見つけて最近の中では一番テンションがあがりました。私の中で消えかけていたものが再燃したとでもいうか。何度か通いたいなと思わせるような場所です。薄暗い雲と乾燥した空気と枯れた木々がなんだか幻想的で良かった。そこで小学生が鬼ごっこをしていた風景もまた新鮮でした。都心ではDSに釘付けになりながら器用に歩行するgame junkieな小学生ばかり目にするので、子供らしい子供を見るととても安心します。 前にも書きましたけど、やっぱり東京は息苦しい。私は東京に住む理由がもはやないなーというようなことを時々思います。私がここにいる理由はたぶん恋人がいるからというただ一点な気もしています。写真に関する商業的な活動は必要なくなった今、わたしの最終的な目標はここ東京にも日本にもないので、それならばもうどこに住んでも同じだと思っています。 足がないので、うーんと田舎じゃ困るけれど、どこか地方都市に住むのもいいなあ。近くに水辺と図書館があればそれで十分。あとは禁煙のカフェがあれば、最高。 ![]() # by sudi.s | 2009-02-07 20:50
2008年 12月 31日
気づいたら、大晦日になってしまいました。世の中が不景気で、テレビをつけると雇用問題の話ばかりで、正月も越せない人が沢山いると聞きますが、街に出れば両手にショッピングバッグを持った人の波が押し寄せてきて、そのギャップに驚きます。 個人的には今年は、小さな喜びや悲しみはあったものの、静かな一年でした。けれど、自分の作品に変化が出た年でもあり、まだ形にはならないものの良い変化なのではないかなと思っています。頑固で一筋縄ではいかない性分ゆえ、人の影響を受けたりしないと思っていたのですが、ある写真家の影響を驚くほど受け、それは写真に向かう姿勢や考え方のみならず作品にもかなり影響が出ました。それは自分でも驚いていて、同時になかなか面白いものだなーと思っています。そしてそういう過程を経て、自分のスタイルみたいなものが昇華していくのかなとも思います。 あと今更ですが、今年は基本的に年賀状を失礼しました。私は筆マメな人間ですが、年賀状を書くことには以前から疑問を頂いていて、不義理なことになるのかもしれませんが、今年は一部礼状を除いて書く気になれませんでした。極論を言えば、手紙を書くのも贈り物をするのも、そうしたいときにそうしたい相手にするのが一番だと思っているのです。心を届けるものであるはずですから。 それでは皆様よいお年を。 ![]() # by sudi.s | 2008-12-31 02:08
2008年 11月 04日
先述の茂木氏の言葉を借りるなら、私はひどく「傷ついた」と言えるのかもしれない。ヴィルヘルム・ハンマースホイ。日本ではあまり知られていないが、ヨーロッパでは高い評価を得ているデンマークを代表する画家。 私が美術に精通しているわけではなく、日本でそれほど有名でないとしたら、知る訳がない。どこかの駅でだったかで展覧会のポスターを見た。女性の後ろ姿だったと思う。思わず立ち止まらずにいられなかった。すごく気になった。理由はわからないけれど、とても強く何かを感じたのだと思う。画家の名前は覚えられず、国立西洋美術館ということだけ覚えて、家に帰りすぐに調べた。「北欧のフェルメール」などという陳腐なキャッチより、あの後ろ姿の女性に強く惹き付けられた。 語彙が乏しいので、的確に表現できないのだけど、すこぶるうなるほど素晴らしいものを見たのは久しぶりだと思う。絵画というよりは、写真のようだった。絵画的な写真というのは知っているけれど、その逆は初めてだ。微妙な光線とグラフィカルな構図、それと独特の空気感。開いたドア、後ろ姿の女性。どれも想像力を掻き立てるのに十分すぎる。展覧会タイトル「The Poetry of Slience」のままに、無機質だけれど、冷たい感じはしない、静かな音のない世界だった。私自身「音のない日常」というタイトルで作品をまとめたことがあるので、おこがましくも彼の中に自分の表現したいことを見つけた気がして、ひどく興奮した。 私はかなり初期(今だって初期だけど)の段階から、日常の中の非日常を切り取りたいと思ってきた。写真=リアリティという考え方があることをわかっているけれど、私は自分が撮るものにリアリティは求めていない。自分の感情一切を取り除きたいと思っている。けれど、それは自分自身が映らないこととは意味が違う。私は湿度の高いーセンチメンタルなといえばいいのかなー写真が好きではない。見るときも撮るときも。 彼の作品は、舞台が自分の家の室内、モデルは妻と、超ドメスティックな設定なのだけど、彼の感情は私には見えない。妻も「被写体=モノ」として描いているように私には感じた。それが彼の意図かどうかわからないけれど、少なくても私にはそう感じた。家というのはもっとも生活感のある場所のはずなのに、そこにいる住人の気配さえない。ひらすらに静寂と孤独。 図録によればー私が感じた通り、彼の綿密な画面構成は写真との密接な相互関係があるらしく、写真を手本としていくつかの作品を制作していた。彼の使うグレートーンもまたモノクロプリントの世界のようである。また彼は「私にモチーフを選ばせるものは、線であり、それは極めて重要である」と答えており、それが私をここまで惹き付ける最大の理由だと思った。 風景も人物画も良かったけれど、圧倒的に室内画、それも後ろ姿の妻が描かれている数々に魅了された。またドアを描いたものなどは、トリックアートのようで、不思議な世界へ誘われた。個人的には会場の最後の2枚に釘付けだった。ケルテスの作品(ドアの向こうの螺旋階段と花瓶の1枚。たしかモンドリアンのスタジオ)を彷彿とさせる1枚だった。こんな写真が撮れたら私はもう二度とシャッターを切らなくていいと思うだろうーそう思わせる絵だった。 「絶対にすごくいい」と言うことは大変危険で傲慢だとわかっていても、私はそう言わずにはいられない。ヴィルヘルム・ハンマースホイ−私をひどく傷つけた芸術家のひとりである。彼に感化されて、部屋で1枚。 ![]() # by sudi.s | 2008-11-04 21:58
2008年 10月 28日
友人と目黒雅叙園まで。目的は華道家「 假屋崎省吾の世界」。 平日昼間にも関わらず、すごい混雑で驚いた。彼のここでの展覧会を見るのは2度目なのだけれど、個人的には前回のほうが好きだった。強烈な個性が更にエスカレートしているというか、行き過ぎた感とどぎつい色に疲れた。華道というより、まさに「 假屋崎省吾の世界」であって、彼そのものという印象。「なんか美輪さんっぽい木だね〜(笑)」と友人に言いながら、原色に塗られた木々を見ていたら今に動きそうな魔物のようにも見えた。きらびやかにもおどろおどろしくも見え不思議な世界観であったことは間違いないのだけれど、正気と狂気の間とでも言えばいいんだろうか、私には理解できない世界だった。そういえば草間弥生の作品を思い出した。もっとも彼女の作品のほうが引き込まれたけれど。今回のこの展覧会は、ある意味刺激的ではあったけれど、私の心を刺激してくれるものではなかった。けれど、百段階段の所々に施された細工(彫り物のようなものとか)は美しく、それを見れただけでも十分な価値はあったと思う。 最近、脳科学者の茂木氏が気になっていて(最近くるくるパーマをかけた私、ちょっと彼のヘアスタイルとかぶってます、笑)著書を読んでいる。そこに面白いことが書いてあった。「優れた芸術作品とはどこか人を傷つける」ものであるというもの。とはいっても不快な意味ではなく、何かが自分の奥まで入り込んでくる感覚。「ああ、やられた」という感覚。その感覚がいつまでも残り、脳の中で何らかのプロセスが進行する。その過程で自分が今まで気づかなかったことに気づかされる。優れた芸術はそのような形で我々を傷つける。更に、身体は傷つくと、傷を受けた部位の組織を再編成しようとする。それは優れた芸術との出逢いが脳に与える作用もまた同じであると氏は言う。再編成の結果、新しいものが生み出されるプロセスを人は「創造」といい、素晴らしい経験、強烈な印象を残す経験をすると、自分もそのような何かを生みだしたくなる。(先述のような方法で)脳が心が傷ついたとき、その治癒過程として創造のプロセスがはじまるとある。(詳しくは茂木健一郎「脳と仮想」でどうぞ) 私が「いいものを見た」=脳が傷ついた、と思うときというのは身体の奥からフツフツと何かが湧いてくるときである。つまりはシャッターを切りたくなるというのが私の場合、一番解りやすい。傷つき方は、グサリとくるものであったり、じわじわと内出血のように痛むものだったり様々。けれど、撮らずにおれない衝動が起こる。これはとても解りやすいバロメーター。感動するものは芸術に限らず。日常のあらゆるもので同じような感覚に襲われる。 余談ではあるけれども、脳といえば、最近MRI検査を受けた。脳の輪切りってなんかアートだわっと病院で大興奮だった。MRIって大袈裟なものかと思っていたのだけれど、「じゃ、撮りましょっか?」とまるでスナップ写真でも撮るかのような軽いノリで言われて拍子抜けだった。病気になるのは辛いのだけど、どこか悪くなるたびに、人間の身体ってなんて神秘的なんだろうかと同時に感動もしている。 ![]() # by sudi.s | 2008-10-28 23:51
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